西福寺の歴史
水上道場と一遍上人
当山は寺号を西福寺と号する以前に水上道場として当地に存在していたといわれています。
1282年(弘安5年)宗祖一遍上人が三嶋大社を参詣された折に一遍上人の従者である時衆徒七、八人が同時に往生され水上の道場に葬った記録(国宝『一遍聖絵』六巻一段・『一遍上人年譜略』)や、その時衆徒の墓とされる五輪塔(残欠群)が当山に現存していることから、少なくとも時衆徒を葬った1282年10月20日(藤沢山過去帳より)頃から当山は念仏修行の道場として存在していたと思われます。
一遍聖絵・第六巻第二段「伊豆国三嶋社参詣」
時衆僧墓:
時衆徒が葬られている五輪塔(残欠群)
水上道場の石碑:
寺号を西福寺と号する以前は水上道場でした。
1309年(延慶2年)寺号を西福寺として開山する
1282年(弘安5年)に宗祖一遍上人とのご縁を頂いた水上道場はそのご化益から、1309年(延慶2年)一遍上人徒弟である聲阿通天和尚[しょうあつうてんかしょう](西福寺一世)により山号を高源山、寺号を西福寺と号し、以来約700年後の現在まで他宗への改宗なく時宗高源山西福寺として宗祖一遍上人の法灯を受け継いでいます。
時宗中興・遊行十二代上人
西福寺六世 尊観法親王
南北朝時代、亀山天皇第七皇子で南朝の重鎮恒明親王の第三子・深勝法親王は、南朝悲運により12歳で出家し、遊行八代渡船上人のもとで時衆となり、尊観(法親王)と称されました。
尊観法親王は祝髪された12歳から39歳に至る28年間を西福寺六世として滞留され、その後遊行十二代を継ぎ14年の間全国を廻国されています。
尊観法親王は南朝と由縁が深く、また自身も熱烈な南朝再興者であったので出家されてからも北朝から常に探索される身でありました。その探索から身を隠すため、さらには三嶋大社の勢力を南朝に引き入れるために、西福寺六世を継ぎ滞留していたと考えられています。また、1387年(嘉慶元年)尊観法親王が西福寺において遊行十二代の法灯を相続されてからも、1392年(元中9年)の南北朝統一に至る5年間は、いつでも南朝方の指揮に当たれるよう有髪であご髭を生やし、遊行廻国の慣例であった尼僧の同行も禁じていたといわれています。
南北朝統一後の1396年(応永3年)、尊観法親王は上洛参内し、後小松天皇内御所玉座の左に着座対面され、以後の遊行上人も参内が許されるという格式が生まれました。
時宗寺院に菊紋があること、導師座が二畳台(畳を重ね玉座と同じ高さにさせること)、以後の遊行上人が髭をのばし頭巾を用いること、これらは全て尊観法親王からはじまるものと伝えられています。
尊観法親王
山口県下関市 専念寺所蔵
尊観法親王と成就地蔵尊
当山の境内の門を入ってすぐ右側のお堂内にお地蔵様がご安置されています。このお地蔵様は、南朝と由縁の深い尊観法親王のご持仏で、南北朝動乱の時代の悲願成就のために熱心なご祈願をされていたので、「成就地蔵尊」として今日に伝えられています。また、駿河一国百地蔵尊第97番札所として設定されており、昔から霊験あらたかな尊像として信仰者が多いお地蔵様です。お堂は平成15年に檀信徒により再建されておりますが、開山当初から変わらず当地にあったといわれています。
地蔵堂外観
成就地蔵尊
御詠歌の扁額:当山の成就地蔵尊を巡拝した篤信者が詠んだ御詠歌
何事も 真心こめて 願うれば
成就せぬと 言うことぞなし
駿河一国百地蔵の標識
時宗について
名 称
時 宗
宗 祖
証誠大師一遍上人(しょうじょうだいしいっぺんしょうにん)
開 宗
文永11年(1274)
総本山
清浄光寺【しょうじょうこうじ】【遊行寺(ゆぎょうじ)】:神奈川県藤沢市
本 尊
阿弥陀如来
所依経論(お経)
浄土三部経【無量寿経(むりょうじゅきょう)・観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)・阿弥陀経(あみだきょう)】・六時礼讃など
一遍上人について
宗祖 一遍上人につて詳しくは、時宗宗務所ホームページ内 一遍上人のご生涯のページをご覧ください。
時宗 宗紋(隅切り三)
源頼朝が鎌倉・由比ヶ浜で戦勝祝いの酒宴を開いたとき、その軍功の順に席次を与えた。
その際、頼朝は小折敷(正方形の四隅を切った曲物)の盆を用意し、「一」と書かれた紙を自分の折敷に、「二」を北条時政、「三」を河野通信の前にそれぞれ置いた。以後、河野家の家紋がこの盆を上から見た形の折敷三文字になったといわれている。宗祖一遍上人は河野通信の孫にあたり、宗紋もこの隅切り三(すみきりさん)を用いるようになった。
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